つくづく自分は、不器用だなあと思う。
手先の不器用さについては前職で毎日のように感じていたが、性格も同じくらい、またはそれ以上に不器用である。
昨日、帰宅した時に私のスリッパの片方だけが消えていた。何処にあるのか探してみたら、玄関の靴に1足だけ紛れていた。(恐らく何かの拍子で混ざってしまったのだと思う)そんな片方のスリッパを見ながら、「私がもしシンデレラだとしたら、王子の気を引くためにわざと靴を置いていこうと考えるけれど、実際には本当に慌てて靴が脱げて置いていってしまうタイプだろうな」と考えてしまった。本当に、その通りである。私は所謂「あざとい系女子」が大好きだ。それは心の中で飼っている童貞目線としても、女子として生きる人間の立場からしても憧れである。
しかし、私は実際に頭の中ではあれこれ計画を考えていても、思ったようにできなくて後から自己嫌悪に陥る。友達や家族や職場の人にだって単純なこと1つ伝えるのに時間を要するし、時には素直になれずに失敗してしまい、その度に反省会を一生繰り返すのだ。時々周りから「いつも楽しそうでいいね」と言われることがあるが、中身は人の目に脅えてばかりの、弱気な24歳である。そして今月は、そんな歩く自己嫌悪マシーンである私の誕生月である。
以前のブログでも書いたが、私は誕生日が苦手である。というか、むしろ嫌いであった。理由は単純で、先程書いたような人間性故に、素直に自分の誕生日を祝えないのである。以前のブログを見てくださった方にはもうそれ聞いたよ、って言われるかもしれないけれど、私が前に書いたことを覚えていないから書いてしまった。このブログ自体も、既に1000文字以上書いたにも関わらず、しっくりこないという理由から書き直している。ネット上でしか自分を語れない人間の虚しさが、ここに現れている。
しかし実際、ここ数年は仲の良い人などから誕生日を祝っていただく機会があり、それは本当にとても嬉しかった。私のために素敵なレストランを予約してくれていたり、プレゼントを買ってくれていたり、その行動自体に優しさを感じて「私は幸せ者だなあ」と改めて思う。また、祝ってくださる人もいる中で、あえて私の誕生日を祝わないという選択肢を持つ人たちもいてくれた。もちろんその理由は私が誕生日嫌いを語ったことがあるからであるが、一見不思議な感覚であっても、私にとってはその心遣いがとても嬉しかった。そして、例え自分が誕生日を誰からも祝われずに1年で1番嫌いな1日を終えようとしても、私のことを思って祝わないという行動してくれた人がいるという事実だけで、十分に人から愛され、祝福されているのだということを改めて考えさせられた。私の我儘に合わせてくれる人がいるというだけで、とても人に恵まれていると思う。だから今年は、誕生日を隠そうとコソコソするのは辞めようと思った。わざわざアピールするのも違うけれど、5月24日を私の中のカレンダーから消してやる勢いで無視するのは、一旦終わりにすることにした。
2日前に、同期と焼肉を食べた。私はその焼肉屋のアプリの登録をしていたこともあり、誕生月の人専用の塩ホルモン1皿無料のクーポンを使えた。あと、バースデー肉セットみたいなのも頼めた。以前の私はそのクーポンすら使いたくなかったけれど、その時の私はバチバチのパーティースパークつきの肉を見て、嬉しい気持ちと楽しい気持ちでいっぱいだった。美味しい肉を目の前にして、自分の選択を後悔する人はいないと思う。誕生日を好きになれないとしても、美味しいものを食べれるためなら何だってしたい。面倒臭い性格と共に図々しさも併せ持つ私は、今年は友人に誕生日プレゼントを頼んだ。プレゼントを貰えることは、とても嬉しい。プレゼントを用意してくれようとする人がいることも、そのプレゼントが手元に残って思い出となってくれることも、全て嬉しい。今の私は、石油王と知り合えたら誕生日プレゼントに現金5000億円だって強請りたい気持ちがある。あと、ファンタジースプリングスの入場チケットだって欲しい。これを見てる人の中に私に誕生日プレゼントを贈ってくださる方がいたら嬉しい、そんな気持ちすらある。時には少しの図々しさが、自己嫌悪と引き換えに誕生日を楽しむための勇気をくれるのだ。それでも私は後から「やりすぎかな…」と反省して、あれこれ考えるのだろう。この世の人間の面倒臭い部分を煮詰めたような性格だが、そんな所も愛おしく見えたらどれだけ幸せだろうか。
自分は今年、25になる。大好きだった金髪を美容院で暗く染め直してもらいながら、今年は前より自分を大切にできたらいいなあと思う。